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後藤祐樹、幼少期に学校で「放火事件」を起こしたことも 自伝で告白

45秒で敗北、左目骨折、顔にはひどいアザが…ゴマキ弟・後藤祐樹が「勝ち目ゼロ」なのに“朝倉未来”と闘った理由から続く

「父さん、大丈夫だよね」「そりゃそうよ。あの人が死ぬわけないじゃない。殺したって死にそうもない人だもの」

【画像】7歳のゴマキとの家族写真、骨折した顔、腹に入れた犬のタトゥー…元EEJUMP・後藤祐樹の壮絶人生

1996年10月27日、後藤家を襲った突然の悲劇。小学4年生にして父親を失った経験は、後藤祐樹の人生にどう影響したのか?新刊『アウトローの哲学』より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/#1を読む)

後藤祐樹、幼少期に学校で「放火事件」を起こしたことも 自伝で告白
幼い頃の後藤祐樹さん(画像提供:講談社ビーシー)

◆◆◆

後藤家

僕は1986年7月10日、後藤家の4人目の子供として生まれた。

4人姉弟の末っ子ではあっても、長男。そう、僕の上は3人とも女ばかりで、初めて生まれた男の子が僕だった。母は男の子が欲しかったらしくて、待望の長男だったようだ。

だからとても可愛がられて育った。おねだりすればたいていのものは買ってもらえたし、何か不自由したような覚えはまったくない。おかげで甘チャンで育ち、世の中をナメてしまった部分はあったのかも知れない。

一番上の姉は14歳も年上で、だからもう姉弟というより、母代わりのような存在だった。実際、特に小さな頃はとても面倒を見てもらった。

逆に、三番目の姉で後に「モーニング娘。」の“ゴマキ”になる真希は年齢が近く、1歳年上。だから、特に小さい頃は、一緒に遊んだ。「お姉ちゃん」ではなく「マキちゃん」と呼んでいた。つまらないことでよくケンカをし、そして泣かされた。

東京都江戸川区江戸川の一軒家で、この姉弟と父母、祖母との7人で暮らしていた。

東京都とはいっても、東の端っこに位置し、ちょっと行くともう千葉県だ。都営地下鉄新宿線が通り、最寄りの駅は瑞江駅になるが、駅が開業したのは僕の生まれた年。それまではかなり交通も不便だったらしい。ただ、すぐ近くに都営アパートがあって、人口は多かった。

山登りが好きで、ケンカも強かった父親

父は建設会社に勤めていた。当時は建設業も好景気で、稼ぎはかなりよかったらしい。

体を鍛えるのが好きな人で、肉体労働を終えて家に帰って来ても、それから土嚢袋に砂を満タンにを詰めたものをリュックに入れ、抱えて何?もウォーキングしたりしていた。手首にはパワーリストもつけていた。

それから帰って来たと思ったらまた腕立て伏せをしたり、とにかく筋トレは欠かさなかった。ケンカで、相手と3対1までなら負けたことはない、と豪語していた。

後で詳しく述べるし、これが父の死因にもなるのだが、趣味は山登りだった。僕も一緒によく山登りをしたが、途中でなんだか気分が悪くなって、歩けなくなったことがある。そうしたら父は僕をおぶって山頂まで上がった。いくら小学生とはいっても、30?くらいは体重はあったと思う。それを背負って山道を3時間も歩いたのだから、やっぱり体力はハンパなかった。

覚えているのは、まだ幼い僕とマキちゃんが父の運転する車に乗っていたら、突然前の車が停まった。僕とマキちゃんは、運転席とつながったベンチシートに座っていたので、それがよく見えた。

車が停まると父は外に飛び出し、前の車に駆け寄った。向こうは運転席の窓を開けた。

そうしたら父はそこに両腕を突っ込み、運転手を外に引きずり出してボコボコに殴り始めた。助手席にいた女性が悲鳴を上げて止めていたが、お構いなしだった。

何があったのかはわからない。きっと前の車の運転手が、こちらを怒らせるようなことをしたのだろう。

そういうトッポい父は見慣れているので、大して驚いたわけではなく、ただマキちゃんと、「ああ、またやっちゃったよ」「前の人、何をしたんだろうねえ」なんて話していた。

それと覚えているのは、もっと小さい頃、父が後輩を逆さ吊りにしていたことだ。川の堤防の上に柵があって、その上から足首を持ってぶら下げていた。下の芝生までは3メートルくらいあったと思う。

後輩の人は何か怒らせるようなことをしたのだろう。

「済みませんでした。済みませんでした」と必死で謝っていた。

そんな父の気質をどこかで受け継いでいるのかも知れない。

小学2年の頃だったと思うが、番長気取りで威張っている奴がいた。僕にちょっかいをかけてきたので、馬乗りになってボコボコにしてやったことがある。以降、そいつは僕にカラんでくることだけはしなくなった。

ワルさをすればぶっ飛ばされるが、そんな父だから、ケンカをしたからといって怒るようなことはなかった。

母からも、「ケンカをしたら負けて帰って来るな」と言われた。「意地でも倒して帰って来い」と。

両親ともにイケイケの家庭だった。

父との会話

「おい、祐樹。いつまで寝てるんだ、早く起きろ」

「まだ眠いよ、父さん。もうちょっと寝かせてよ」

「何バカなこと言ってるんだ。早く起きろったら。遅くなってしまうぞ」

日曜日の朝、僕と父の間ではこんなやりとりから一日が始まる。体を鍛えるのが大好きな父はその頃、山登りにハマっていた。時には母や姉ちゃんも一緒に行くこともあったが、たいていは父と僕、そして父と同じ会社の後輩の3人で山に登った。

行く先もたいていは決まっていて、茨城県の男体山だった。標高654m。素人だって大して苦労することなく登ることができる。

山道を歩きながら、父が話しかけてくる。

「最近、学校はどうだ。宿題はちゃんとやってるか」

「うん、やってるよ」

「そうか。偉いぞ」

大した中身があるわけではない。ただ、そうして山登りをしながら、息子とコミュニケーションするのを父は楽しみにしていたのだろう。

そろそろ山頂の近く、9合目くらいまで登ったところで父と後輩のおじさんは、岩の出っ張った崖の上から、50mくらいのザイルを垂らす。そして大人2人で下まで戻り、ザイルを伝って崖を登る。ロッククライミングだった。

「1時間くらいしたら上がって来るからな。お前は先に頂上まで行って、待ってろ」

「うん、わかった」

そこから先は子供の足でも大した距離ではない。のんびりと頂上まで登って、母の作ってくれた弁当を食べた。そんなに高い山ではないけど、やはり山頂からの眺めは格別だ。自分の足で登って来た達成感もある。いい景色を眺めながら食べる弁当の味は、最高だった。

「僕、一人で来たの」

山頂では他の登山者から話しかけられることも多い。子供が一人でこんなところにいるから、やはり目立つのだ。

「違うよ。お父さん達は今、崖を登ってるんだよ」

「そう。でも子供一人だけじゃ、怖いねぇ」

「怖くないよ。いつもやってるモン」

「そう。でも、気をつけてね」

山の上では知らない人とでも自然に会話が始まる。人見知りの僕だったが、山ではこんなふうに普通にコミュケーションを取っていた。

また、ザイル一本で崖を登る父さん達の姿もカッコいい、と思っていた。岩場にはそこにしか生えていないイワタケという山菜や、そこでしか咲いていない花もあるという。父はロッククライミングをしながら山菜を採ったり、花を眺めたりするのが楽しかったそうで、そういう話を目をキラキラさせながら僕にしてくれた。

「僕も早く、父さんみたいにロッククライミングしたいな」

「祐樹もそろそろ、始めてもいいだろうとは思うけど。でも母さんがうるさいんだ。もうちょっと大きくなるまで待ってな」

父は本当に、僕と岩登りできるようになるのを楽しみにしていたようだ。

家の近所の公園に僕を連れて行き、巨木を使ってロッククライミングの練習をさせたりしてくれた。父が先に木に登ってザイルを垂らし、僕はそれをつかんで続いて登る。そのくらいの木だったら、僕だって難なく登ることができた。

後藤家を襲った「父の死」

そんなある日のことだった。1996年10月27日。僕は小学校4年生になっていた。

いつものように男体山に登った。父と僕、そして父の後輩の弟というおじさんと一緒だった。

いつものように大人2人はロッククライミングを始め、僕一人で山頂に登った。お弁当を食べてもうそろそろかなと見当をつけ、崖のところに戻った。

おじさんが先に上がって来た。

ところが2人でしばらく待つが、いつまでたっても父が上がって来ない。

「おかしいな。こんなに遅くなるわけはないんだが」

おじさんも心配そう。

「お父さーん」崖の下へ大声を放つが、なんの反応もない。見下ろそうとしても崖のふちが出っ張ってて、下の様子は見えないのだ。

「いくらなんでも遅すぎる」

おじさんがザイルを手に取ってみると、簡単に持ち上がった。軽い。人がぶら下がっていたら体重がかかるから、こんなに軽いわけがない。するするとたぐるとザイルは全部、手元に上がってきた。

「ちぎれた跡はない。体がすっぽ抜けちまったのか」

「父さん、落ちちゃったの?」

あわてて2人、崖の下まで降りた。そこにも父の姿はなかった。

山麓まで降りて、警察に電話を入れた。

母にも連絡すると、その日のうちに山まで駆けつけて来た。その日は麓の近くの旅館に泊まった。

「父さん、大丈夫だよね」

「そりゃそうよ。あの人が死ぬわけないじゃない。殺したって死にそうもない人だもの」

僕もそう思った。あの父が死ぬなんてあるわけがない。想像もつかない。母の言葉に安心して、その夜は眠りに就いた。

ところが翌日、父の遺体が発見された。

警察からの連絡を受けて泣きじゃくる母の姿は、今でも鮮明に覚えている。

父も母も短気で怒りっぽく、よくケンカしていた。

「バカ野郎、死んじまえ」なんて母が父に喚くこともあった。でもやっぱり、本当は好きだったんじゃないか。母の泣き顔を見て、そんな見当違いのことを考えていた。

だってやっぱり、あの父が死んだなんてどうしても信じられなかったから。現実感が湧かず、わけのわからないことを考えるくらいしかできなかったのだ。

父の死が後藤家に与えた影響は大きかった。

厳しい父で、スジの通らないことをするとこっぴどく怒られた。それは姉に対してもそうだったし、僕なんか男の子だから、何かというとぶっ飛ばされた。しつけは本当に厳しかった。

父が死んだせいで僕はグレた、なんて言うつもりはない。ただやはり、死んでなかったらずいぶんと違っていただろうなとは思う。ワルをやっても、どこかでストップしていたのではないか。これ以上やったら父に殺される、と思えばそこから先に踏み出す勇気はさすがになかったろう。

小さな頃から腕っぷしはそこそこで、ちょっかいをかけてくる奴がいたらぶっ飛ばした。ただ、自分から番を張るようなことはしなかった。上に立って他を率いるようなことは趣味じゃない。ただ問題児童10人くらいで徒党を組んで、練り歩いたりはしていた。

女の子の悪口を、公園の遊具という遊具に缶スプレーで落書きして回ったこともある。僕ら不良グループに白い目を向けていて、すごく嫌っていた女の子だった。

ところがそれを近所のおばちゃんが見てて、学校にチンコロ(告げ口)し、バレてしまった。当然こっぴどく怒られ、白のペンキで落書きを消すよう言われた。おかげでその公園の遊具は全部、真っ白になってしまった。

放火事件

小学校5年だったか6年だったか、学校で放火事件を起こしたこともある。

その頃には授業をサボってフケることも多くなっていたが、その日も一人、図工室に忍び込んでいた。

ふと見るとダンボール箱の中に画用紙が詰め込まれていた。棚の上にはマッチもあった。見ていると、まるで画用紙が燃やしてください、と言っているように思えてきた。

こうなるともう止まらない。

早速マッチをすって、画用紙に火をつけた。あっという間に画用紙から画用紙に火が移り、ダンボール箱まで燃え始めた。

僕はなんとなく、燃えるのは画用紙だけでダンボールは大丈夫のように思っていた。だが、そんなわけはない。ダンボールから木の床にまで火は移り、炎はどんどん大きくなっていった。

ダンボールは入り口のところにあった。そこに火をつけたのだから、部屋から出られない。僕は部屋の奥に逃げた。でもそこから先には、逃げられる場所がない。その部屋は2階だったが、子供が飛び降りるには下までかなり高さがあった。

炎はどんどん大きくなる。こちらに迫ってくる。

僕はパニックに陥った。どうしようもなく、ただ迫りくる火を見ていた。

非常ベルが鳴り響く。感知器が火を感知し、警報を発したのだ。

と、ブワーッという音がして、火が二つに割れた、消火器が噴射されたのだった。

続いて大人が飛び込んで来た。

「後藤、大丈夫か」担任の先生だった。

「よし、出るぞ」手を引いて、部屋の外に連れ出された。こうして僕は助かった。

「済みません。済みません。本当に申し訳ありません」

学校に呼び出された母は、平謝りに謝っていた。

図工室はほぼ全焼。また全校生徒は一時、校庭に避難する大騒ぎになってしまった。担任の先生から大目玉を食らうかと覚悟していたが、僕がケガをしていなくて安心したようだった。

「死なずに済んで、よかったじゃないか」

この先生のことが僕は好きだった。

中学校に行っても周りにこんな先生がいたら、僕のヤンチャにも歯止めがかかっていたかも知れない。

(後藤祐樹)

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