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「全裸の私は、健康で…」35歳でヌードを披露した過去も、疲れ知らずの黒柳徹子「90歳の野望」とは

俳優・タレントの黒柳徹子がきょう8月9日、90歳の誕生日を迎えた。NHKのテレビ本放送開始とともに同局の専属俳優として芸能界入りしてから70年、司会を務めるトーク番組『徹子の部屋』(テレビ朝日系)は48年目に入り、まもなく半世紀を迎えようとしている。2015年に文化功労者、今年2月には日本芸術院の会員にも選ばれた。

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日本最大のベストセラー

今年12月には、黒柳が子供のころ通ったトモエ学園の思い出をつづった著書『窓ぎわのトットちゃん』がアニメーションとして初めて映画化される。この本は1981年の刊行以来、580万部を売り上げた日本最大のベストセラーである。

「全裸の私は、健康で…」35歳でヌードを披露した過去も、疲れ知らずの黒柳徹子「90歳の野望」とは
黒柳徹子©時事通信社

黒柳によれば、同書を映画にしたいとの依頼は、これまでにも“黒澤明を除くほとんどすべての映画監督”からあったが、読者の頭のなかにある映像のほうが良いものなのではないか?と思ってすべて断ってきたという。それが今回はアニメーションでどうかという話で、《それであれば若い方々がご覧になっても楽しめるかもしれないと思い》、承諾したらしい(映画『窓ぎわのトットちゃん』公式サイト)。

『窓ぎわのトットちゃん』以外にも黒柳には著書が多数あり、雑誌などでもこれまでさまざまなエピソードをユーモアたっぷりに語ってきた。その内容も、テレビ草創期の体験談や、自身の恋愛についてなど多岐に及び、話題には事欠かない。ここではそのなかからほんの一部だが紹介してみたい。

その1、篠山紀信撮影でヌード写真

黒柳はいまから55年前、1968年に男性誌のグラビアでヌードを披露したことがあった。彼女は当時35歳。撮影したのは当時新進気鋭のカメラマンだった篠山紀信である。

篠山はその前年、国立劇場で上演された舞台『八人の女』でヌードダンサー役の黒柳が、劇中でセミヌードになる場面を見て、ぜひヌード写真を撮らせてほしいと依頼してきたという(黒柳徹子『トットひとり』新潮社、2015年)。

NHKの専属からフリーになったばかりだった黒柳はこの頃、テレビドラマで中年役に熱中しており、世間では彼女をてっきり40過ぎと勘違いする向きもあったという。本人としてもヌード撮影はそのイメージを訂正する格好のチャンスとばかりに、思い切って脱いでみせたと、後日書いている(『週刊新潮』1969年1月25日号)。

「全裸の私は、健康で…とてもいい写真だった」

実際にその掲載誌(『週刊プレイボーイ』1968年9月24日号)を見ると、バストトップも見せていない、ソフトなものであった。金髪のウィッグをつけた黒柳は女優そのもので、舞台のワンシーンを思わせるドラマチックで、躍動感あふれるものとなっている。

黒柳がこのとき撮った写真のなかでも「最高の出来栄え」とのちに著書『トットひとり』で書いているのが、白いダチョウの羽根の扇子で胸をおおった彼女が飛び上がった写真だ。それは、スタッフたちが黒柳の両側から紫色と白色の羽根をたくさん飛ばしたところ、偶然、そのなかの1枚が彼女の下腹部から太ももの前に来た瞬間をとらえたものであった。

先述の著書では《ひらひらと舞う羽根の中に飛び上がってるほとんど全裸の私は、健康で、ちょっと、いかれてる感じで、いきいきとしていて、悲しそうでもあり、とてもいい写真だった》と振り返っている。

その2、赤塚不二夫との不思議な関係

『徹子の部屋』では昨年暮れにタモリがゲスト出演して、番組の終わりがけ、黒柳から「来年はどうなりますかね」と訊かれてタモリが「新しい戦前になるんじゃないですかね」と答え、その解釈をめぐりちょっとした議論が起きたことが記憶に新しい。

タモリと黒柳といえば、タモリがまだ福岡から上京したばかりの頃、その芸を認めたマンガ家・赤塚不二夫の強い後押しで初めて出演したテレビ番組を、黒柳が偶然目にし、すぐに赤塚に電話して「あの人は誰!?」と訊ねたという話が語り草となっている。

黒柳は赤塚とかつてNET(現・テレビ朝日)の『まんが海賊クイズ』という番組で共演しており、スタッフぐるみで遊ぶ仲となって以来、番組が終わってからもときどき連絡を取っては食事したりしていた。もっとも、赤塚のほうは黒柳に友情以上の思いを寄せていたふしがあるという。黒柳は『文藝春秋』2011年3月号への寄稿で、こんなエピソードを明かしている。

何の前触れもなく「来ちゃった」

あるとき、黒柳が大阪の劇場で公演中、赤塚が何の前触れもなしに「来ちゃった……」と楽屋に訪ねてきたことがあった。その第一声に黒柳はちょっと重いものを感じてしまう。

それからとりあえず一緒に食事をしたあと、二人でホテルのバーに行った。彼女は、それまでの付き合いから赤塚がとても繊細な神経の持ち主だと知っていただけに、「何しに来たの?」と単刀直入に訊くことができない。

だんだん何を話せばいいのかわからなくなって、ようやく口をついて出たのは「きょう帰るの?」という一言だった。それに対し赤塚は「うん」と答え、彼女は「ふーん」とうなずくしかなかったという。

結局、このときの赤塚の真意はわからずじまいで、この“事件”は黒柳の心の深いところに、ずっと沈んだままになった。その後も二人はつかず離れずの関係を保ちながら、交友関係が続いた。

タモリを誘って見舞いに行くと…

晩年の赤塚は脳内出血のため昏睡に陥り、何年ものあいだ寝たきりになってしまう。会話さえできない彼に黒柳は一人で会う勇気が出なかったが、ようやく意を決し、タモリを誘って見舞いに赴いた。

ベッドの上の赤塚は、いつ起き上がってもおかしくない雰囲気に感じられ、自然に話しかけることができた。「ちょっと、いい加減にそろそろ起きたらどう?」と黒柳が声をかけると、赤塚夫人が「あっ、笑ってる!」と驚きながら言った。見ると彼の口元には2本のシワができていた。それは笑うときにしかできない線だという。

その後も色々と話しかけたが、ほかのことではまるで変化がないのに、黒柳たちが「いい加減に起きたら?」と言うときだけ、口元にシワができた。結局、10回はそうやって笑わせたらしい。帰りがけ、タモリがボソッとこう言ったという。「不二夫ちゃんはね、黒柳さんがタイプなんですよ。たぶん昔からずっと」。

ギャグマンガ家として全盛期にはプレイボーイとして鳴らした赤塚だが、根はシャイゆえに、本当に好きな相手にはなかなか本心を伝えられなかったのかもしれない。

その3、黒柳徹子は「疲れ」を知らない

黒柳は若い頃、3度見合いをしたが、結婚しなかった相手がテレビで自分を見て「こいつ、俺が見合いした相手だ」などと言われると嫌だなと思い、やめてしまった。その後も、一緒に仕事をしていた人からプロポーズされたこともあるし、経験自体は多くはないが、素敵な恋愛もあったという。

しかし、いずれも結婚する決心まではつかなかった。《でも、結婚しないできたから「徹子の部屋」も四十年つづいたし、舞台の仕事もユニセフの親善大使もできたのだと思います》と本人は振り返る(『文藝春秋』2016年1月号)。

ユニセフ(国連児童基金)の親善大使として、世界に大勢いる戦災や飢餓などの危機に瀕した子供たちのために活動を始めたのは1984年。前後して1979年には、アメリカのろう者劇団「ナショナル・シアター・オブ・ザ・デフ」を日本に招き、彼女自ら英語の手話を日本語の手話に訳して上演を実現させた。これを契機に日本でもろう者の人たちによって「東京ろう演劇サークル」が結成される。

同劇団はその後、黒柳が『窓ぎわのトットちゃん』の印税をもとに設立した「トット基金」の付帯劇団となり、「日本ろう者劇団」と改称し、現在も手話狂言や創作劇などを各地で上演し続けている。この劇団に所属するろう俳優である江副悟史や五十嵐由美子は、昨年から今年にかけて話題を呼んだドラマ『silent』や『星降る夜に』にも出演した。

時には、危険な場所に行くことも

ユニセフの活動では、地雷原など「民間人」が近づけないような場所にも赴く。一方で、自分が俳優として色褪せたら、親善大使として人々に協力してもらえなくなるので、本業もおろそかにできない(『徹子の部屋』が始まってからはテレビドラマには出演せず、俳優の仕事は舞台に絞ってきた)。それでも、すべてやりたくてやっていることだから続けられるのだという。その発端には、30代の前半に一度過労で倒れたとき、医者から言われた「元気に働きたければ、自ら進んでやりたいと思う仕事だけしなさい」とのアドバイスがあった。

いまから30年前に『週刊文春』の対談ページに黒柳が登場したとき、聞き手の阿川佐和子が彼女の多忙ぶりに驚いて「ああ、疲れたなとか、仕事が嫌になっちゃったなってことはないんですか」と訊ねた。これに対し黒柳は《あのね、疲れたってこと、私あんまり分かんないの(笑)》と言ってのけ、《みんなよく「疲れた」って言うでしょ。(中略)私、一度も言ったことないの。だから、ホントに疲れないんだと思うの。友達に「疲れたってどういうの?」って聞いたら、みんな「口ききたくない」って(笑)》とあっけらかんと語った(『週刊文春』1993年9月23日号)。

別のところでは、《ユニセフの活動も、ろう者の劇団の活動も、「ボランティアをしなければ」という気負いがあって始めたわけではありません。ちょっと面白そうだなと、興味を抱いて飛び込んでいっただけ。それが結果的に人のためになると、「あぁ、よかった」と思います》とも語っている(『婦人公論』2019年5月14日号)。

手話への関心も、トモエ学園に通っていた頃、駅前で同い年ぐらいの子供たちが静かにジャンケンのようなものをしているのを見かけ、好奇心から輪の中に入っていったときにさかのぼる。そこで子供心にジャンケンではないと気づき、あとで大人に訊いて、それが手話であると知った。

『窓ぎわのトットちゃん』では、彼女がトモエ学園に入る経緯として、前にいた小学校で授業中に学校の前を通ったチンドン屋さんを呼び止めたりと、心の赴くままに行動するので退学にさせられたという話がつづられていた。旺盛な好奇心は、その後も変わらず、彼女のモチベーションとなっていることは間違いない。

黒柳徹子、90歳の野望

その黒柳が《90歳になったらね、『徹子の部屋』で、歯に衣着せずもっといろんなことが聞けると思うのよ》、《100歳になったら、本気で政治家の話を聞いてみたい。100歳が訊くんだから本音をしゃべっていただけると思うの。それが楽しみ》と語ったのはいまから15年前のこと(『婦人公論』2008年3月7日号)。以来、90歳になったら政治の勉強を始めて、100歳で政治記者になるというのが彼女の目標となった。それをいよいよ実行に移す年齢を迎えたことになる。

そもそも『徹子の部屋』の前身は『13時ショー』というニュースショーだった。ひょっとすると黒柳の目標達成のため、番組の原点回帰もあり得るのか!?

(近藤正高)

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